「木霊の詩」   粗筋         5-1  5-2          10e
木霊の詩 6

私の家のリビングには、不思議な木がある。
前の住人が残していった、大切な木だという。
高さ1メートル半ほどのその木は私と二人の息子に安らぎと癒しをくれる、私達家族にとっても大切な木になっている。



第六夜


覚悟していた大冒険は、未遂に終わった。
気が抜けるほど、あっさりと、私達親子は自宅に帰って来られたのだ。

村の電灯は夜の10時になると一斉に消され、待合所の裸電球の仄(ほの)かな明かり以外は暗黒に溶けてしまった。
が、その時、
「おばちゃん」
「トモくん!?」
家に帰ったはずのトモくんが現れたのだ。
「おばちゃん、ごめん。オイラを家に帰してくれたのに、おばちゃんたちを帰してあげてなかった」
「トモくん・・・」
「今、おばちゃん家(ち)への道、開くから、大と陸、起こして」
何がなんだか分からないけど、私は急いで子ども達を起こした。
「あっ、トモくんだ〜」
すぐに目覚めて喜ぶ大に、寝惚けて目を擦っている陸。私は慌てて借りていた毛布を畳むとバッグの中から適当な紙を出し、『ありがとうございました』と書きなぐって毛布の上に置いた。
「さ、早く」
トモくんが両手を広げると、そこにはあのぼんやりとした空間が出来たのだ。
「トモくん、ありがとう!」
私は大と陸の手を握り、空間に足を踏み入れた。その時、
「トモくんも行こう!」
大がトモくんに向けて手を差し出したのだ。
「大!」
私は思わず大の手を強く握った。
私はその時どんな表情をトモくんに向けていただろう。
―――そうだよ、一緒においで!
その言葉を飲み込んで、唇をかみ締め・・・。そして空間の中を進んだのだ。
―――さようなら、トモくん
心の中で呟いた私の言葉。そんな私達にトモくんは
「ありがとう、大。ありがとう、陸。ありがとう、ママ」
そう言ってくれたのだ。
空間が閉じようとした時に聞いた、トモくんの最後の言葉。私をママと言ってくれたトモくんの気持ちが嬉しくて、哀しくて。空間を抜ける時に起こる目眩も感じなかったほどだった。


そして、気が付くと、私達は見覚えのある場所に立っていた。自宅のあの木の前に大と陸と3人で。しっかりと手を繋いだまま。

その日は私も大も陸も、なんとなくボーっとして過ごした。
木の実は小さく、暫くは大きくなりそうにない。

なんとなく時間が過ぎて、昼もかなり過ぎた頃『ピンポン』と玄関のチャイムが鳴った
「郵便会社ですが、羽山侑恵様に速達です」
羽山侑恵は私のペンネームだ。
「はい、ありがとうございます」
封書を受け取り、私はすぐに差出人を確認した。
『武野林市竹見・・・中村聡』
中村さとし!
トモくん!?
急いで封を切ると、中からは私があのバス乗り場の待合所に置いてきた、「ありがとうございました」と書きなぐったメモ用紙・・・のつもりが、私の名刺だった・・・が出てきた。適当な紙と思って取り出したのは、メモ用紙ではなく私の名刺だったのか。色も褪せて、ボロボロになっているものの、間違いない。この名刺はどれだけの年月を過ごして来たのか分からないけれど、私にとっては数時間前のことだ。
それにしても、どういうことだろう?
それに、今気付いたのだが、トモくんの「さとし」は『智』であり『聡』ではない。
「ママ、それなぁに?」
陸が封書に気付いて訊いていた。
「ん、ママへのお手紙・・・」
と言いながら陸に手渡そうとして、封筒の中にまだ何か入っていることに気が付いた。
『実家を片付けていたら出てきたので送ります。中村聡ことハジのおじちゃんより』
―――ハジのおじちゃん!?
ハジのおじちゃんは私の父の友人で、私が小さい頃によく家に遊びに来ていた優しいおじさんだ。名前の聡という字が恥という字に似ているからと、高校生の頃に付けられた渾名だと言っていた。確か、早期退職制度を利用して2年ほど前に実家に戻り、今は農業をしていると聞いている。
私は急いで父に電話した。
『おう、ユキか。久しぶり』
ユキは父の私への呼び方だ。
『あのね、父さん。ハジのおじちゃん、何かあった?』
挨拶も無く、いきなり本題に入ってしまったことにも気付かぬほど、私は慌てていたらしい。
『なんだ、なんだ? 父親の心配よりオレの友人の心配か?』
『あ、ごめん。でもね、ちょっと気になることがあってさ』
すると電話の向こうの父の雰囲気が少し固くなったように感じられた。
『実はオレもハジから連絡を受けたばかりなんだけどな、今からアイツの実家に行くことになった』
『なんで?』
『アイツの義母(ははおや)がいよいよ危ないらしくてな、いろいろ手伝いに・・・』
『じゃあ、私も行く。そういう時は男手より女手の方がいいよ。父さんは子ども達の面倒見て!』
子ども達も連れて行くつもりなのか、と、渋る父を強引に押し切り、私はハジのおじちゃんの実家へ父と一緒に行くことになった。もし・・・、もし私の勘が当たっているのなら、大も陸も行った方がいい。
私の勘・・・それはハジのおじちゃんの奥さんの実家がトモくんの家であるということ。そして本当にそうであるなら、子ども達が一緒に行くことに、大きな意味があるのだ。
私は急いで喪服一式と無地の割烹着を用意し、陸には幼稚園の制服を、大には黒っぽい洋服を出して鞄に詰めた。足りないものは父に会ってから確認して、東京駅で揃えればいい。
火と戸締りを確認し、お隣に出掛けることを伝えて、私は子ども達と東京駅に向かった。


東京駅から5時過ぎに出る新幹線で、私達は武野林に向かった。その車内で、私はハジのおじちゃんからの速達のこと、トモくんが家に来た経緯は多少誤魔化して、父に大体のことを話した。
父は私とハジのおじちゃんが直接話した方がいいと言ってくれた。
父はこの時、ハジのおじちゃんの秘密を教えてくれたのだ。
「ハジの嫁さんは中村家の一人娘だと言っているが、実は双子の兄がいたのだ」、と。生まれてすぐに親戚の家の養女に出された双子の妹、ハジおじちゃんの奥さんは、自分が双子だったことを知らない。昔は、特に古い考えの残る地域では、双子は不吉と思われていたらしく、多分その兄も自分に妹がいるなどとは知らずに育ったのだろう。そして兄が行方不明になり、既に父親が鬼籍に入っていて新たな子を望むことも出来ない状況で、養女に出していた妹を再び実子として戻したのだろう、と。
「昔はいろいろな無理が通ったものだからな。それが田舎となれば、尚更のことだ」
それに戦後処理に追われて混乱していたあの時代。小さな村の中の事とは言え、権力者であった中村家が黒と言えば白も黒になることはあったかもしれない。
父はそこまで言わなかったけれど、私にはそんな風に思えてならなかった。

新幹線を降り、在来線に乗り換えて30分。そこから更にタクシーで30分。中村家のある竹見地区に着いた時には、既に夜の10時を回っていた。
ハジのおじちゃんのお義母さんは、病院は嫌だと自室に主治医を通わせて治療を受けているという。
面会は無理だろうと思っていたが、ハジのおじちゃんの奥さんが、是非会ってくれと私と父だけでなく、子ども達まで部屋に入れてくれた。

―――あっ!

年を取っているけれど、昨日の夕方、私の両腕を掴んで「智の居場所を教えてくれ」と叫んだ、あの女性に間違いなかった。大と陸にも分かったのか、不思議そうな表情をしている。
その時、眠っていると思われたハジのおじちゃんのお義母さんが、うっすらと目を開いた。
「さとし・・・おしえて・・・・」
私を昨日の・・・彼女にとっては何十年も前の、あの日の無礼な訪問者だと認識したのか、それともただのうわ言か。だが確かに言ったのだ。
『さとし』そして『教えて』と。
その言葉を奥さんはハジのおじちゃんに訪問者のことを教えろと言ったのだと理解したらしく、
「お母さん、聡さんのお友達とそのご家族ですよ」
と、答えていた。
そしてその言葉を聴いたお義母さんは、また目を閉じた。


ハジのおじちゃんの奥さんが部屋を用意してくれた。そこに子ども達を寝かせた後、別室で、私は父とおじちゃんと話す機会を与えられた。
まず、あの「ありがとう」の名刺が何故私のものだったのか訊かれ、新幹線の車中で父に話したことと同様のことを話した。信じてもらえなくても、私は過去のここに来ていたことを。
すると、その時のことは村の中で噂になったらしいけれど、中村家に関する噂は禁忌ということで村外には広がらなかったらしい。名刺が中村家に渡ったのは、あのバス乗り場の女性が噂を聞いて、こっそりとお義母さんに渡したからだという。お義母さんはずっと秘密にして仕舞い込んでいたらしいけれど、先日、急にお守り袋の中からそれを出し、ハジのおじちゃんに遺言状の在り処とともに昔の話をしたそうだ。
「だからユキちゃんの話は信じられるよ。義母は自分が死んだら井戸を調べて、遺体が出てきたら合同葬にしてくれ、とも言っていたからね」
―――信じてくれていたんだ、昨日の私の話・・・
「でも、信じてくれていたなら、どうしてもっと早く井戸を調べなかったの? トモくんは、トモくんは・・・」
涙が出そうになって言葉が続かない。
「トモくん・・・か。懐かしいな」
「え?」
「オレもこの村・・・じゃなかった、何年も前に合併して、市になったんだった。まあ、それはどうでもいいけど、この竹見地区の出身で、トモはオレと同姓同名だったからって、トモって呼ばれるようになったんだからな」

一体どういう縁なのだろう。トモくんが私の父の友人の友人で、私の家に現れて・・・
「井戸を今まで調べなかったのは、義母が自分の母さん・・・トモの婆ちゃんを思ってのことだろう」
「え?」
私はあの怖いイメージのお婆さんを思い出した。
「この中村家は代々女系ってヤツでね、婆ちゃんは戦死した夫・・・その人も婿養子だけど、戦前に婿養子なんて、今で言えば箸にも棒にも掛からないっていう、いわゆる総領の甚六みたいな男ぐらいしかなり手が無かったのに、婆ちゃんの夫はとても働き者で出来た人だったらしいんだ。そんな父を尊敬する母を見て育った義母も、自分の父母を物凄く尊敬していたらしい。だから母親の意思を尊重したかったんだと思う」
「でも・・・でも・・・」
だからって、自分の息子を冷たい井戸の中から出してやりたいと思うのが親じゃないの?
「ユキちゃんの言いたいことはわかるよ。でも、死んでしまった者より、生きている者こそ大事だろ?」
そうだ。もし本当に井戸からトモくんが出てきたら、あのお婆ちゃんは自責の念からどうなっていたか分からない。
「それにね、婆ちゃんも義母も、心の中では智に生きていて欲しかったのさ。見つからなければ、どこかで生きているって思える。慰めにしかならないことは、2人とも承知だっただろうけどね」
「それは・・・」
自分はやはり、昨日、この家に来てはいけなかったんじゃないだろうか。事実を告げることだけを考えて、私は独り善がりの正義感に酔っていたのかもしれない。
涙がぽろぽろと零れて、止まらなくなった。そんな私を傷つけたと思ったのか、ハジのおじちゃんが優しく言う。
「でも、智はユキちゃんの家に現れて、この家に帰る手伝いをして欲しかった。智はこの家に帰って来られて、嬉しかったと思うよ」
そう言ってもらっても、私はもう何も言えなくなっていた。私がしたことは間違いだったと思えてしまう。だって、本当ならあり得ないことなのだ。死んだ子どもが未来の他人の家に現れ、過去に真実を告げに行く、なんて、そんな出来損ないの作り話みたいなこと。
「ユキ」
それまで黙って聞いていた父が口を開いた。
「ユキの行動の全部が正しいとは言わない。だけど、良いことをしたと、父さんは思うよ」
「何故?」
「時代の差、とでも言うのかな。どの時代でも親なら行方不明の子どもの生死をはっきりさせて、生きているなら居場所を知りたいし取り戻したいし、死んでいるならその遺体を弔ってやりたい。そう思うのが当然だ。だけどあの戦争で多くの人が死に過ぎた。遺品さえ帰ってこない事も多かった。軍からの死亡通知も間違っていることがあった。だから戦争に行って帰らない者が生きているのか、死んでいるのか、はっきりしないまま何処かで幸せでいるのだと想像することで自分を慰める人が多くいるし、そう思うことを生きる支えにしている人もいるだろう。でもユキのように、戦争から遠くなった世代の人は、その事実を他人の言葉で突き付けられる怖さを知らない。自分の目で確かめたのでもないのに、他人から言われただけで、大切な人の死を受け入れられる人なんて、居やしないんだ」
「だったら! だったら私のした事だって、いきなり他人に『あなたの息子は死んで井戸の中にいます』って、恐ろしい言葉を一方的に押し付けて、この家の人を傷つけただけじゃない!」
「そうじゃない。ユキは辛い事実であっても本当の事を親に教えてあげられた。井戸を調べて智くんの生死を確認するかどうかという選択肢を、ユキはこの家の人に教えてあげられた。事実を知る方法を教えてあげられたんだ。それにあの戦争では死んだ人間は魂さえ戻ってこられたかどうか分からない。でもユキは魂だけでも確実に智くんを家に帰らせてあげることが出来たんだ。ユキはその時、出来る限りのことを精一杯やったんだと思っていい。父さんはそう考えるけどな」
「・・・・・・・・・」
本当にそうだろうか。
行方不明になった我が子の死なんて、想像することさえ恐ろしい。どこかで生きているのだと、思い続ける方が幸せなのではないだろうか。
再び黙り込んでしまった私に、今度はハジのおじちゃんが言う。
「ユキちゃんが悩むことは無いよ。君は智が望んだことを精一杯やってくれた。それに、人はそれぞれがそれぞれの思いや考え方を持っている。何が正しいとも誤りだとも、断言なんてできない。悩んだり、後悔するのが嫌だからって、困っている人の頼みを無視したり・・・、いや、極端なことを言えば、誰とも関わらないで生きていくなんて、出来ないだろ?」
ハジのおじちゃんが言うことも尤もだと思う。きっと誰の所為でもないのだ。起こってしまった事に対する人の見方、思い方、考え方、感じ方、様々な感情は人それぞれの価値観で同じにも正反対にもなる。
「それでも私・・・トモくんのお母さんに謝ってくる。同じ事を伝えるにしても、あの時の私の言葉にはお婆ちゃんにもお母さんにも、決して優しいものでは無かった気がするから」
今更謝っても私の自己満足にしかならないことは分かっている。でも、同じ母親という立場であった私は言い方だけでなく、行動も残酷だったのだ。
息子が行方不明だという母親にその死を伝えるのに、私はその息子と一つしか年の違わない息子を連れていたのだから。